わたしはよく、始まってもいない未来を終わらせてしまう
何かに苦しめられるとき、わたしの視界は湾曲する。
いつもなら駅前のベンチに座っている自分を見られるはずなのに、月に立って自分を見つけようとして不安になることがある。
あるいは、明日の朝ごはんも決まっていないのに、50年後に何をして暮らしているかを想像して明日を生きることすらやめたくなる。
最近、「不安定なときに物事を決断するな」という言葉が、ようやく染みてくるようになった。自分が見る世界の倍率調整がむずかしくなっているときほど、間違った、というか、偏った選択をしてしまうのだと思う。
宇宙視点のアリや、アリ視点の宇宙な状態で物事を決めるのは、宝くじみたいなものかもしれない。そういうときに限って、人生を賭けた重大なことを考えたりして一喜一憂するんだけどね。
知るという幸福
視野が狭まると選択肢も狭まる
選択肢が狭まると視野も狭まる
どちらが先かは分からないけど、どちらかが欠けてしまうと、もう一方も失うときがあるのは、なんとなく経験がある。
「視野」は、自分の外の世界をどれだけ認識しているかの尺度で、「選択肢」は、自分が見えてる世界の中でどう行動するかの手札だと思っている。
それを支えているのが「知識」。
受け入れるか受け入れないかは別として、「知っている」ということに救われることは想像以上にある。逆に「知らない」は、時に命すら奪うことがある。
小さい頃に家と学校以外にも世界があると知っていたら、身を削ってまで勝とうとした居場所の椅子取りゲームに励まずに済んだのかな。
この世には色んな会社があって、それぞれ常識も違うんだと知っていたら、「この会社でやっていけないなら社会で通用するわけがない」と自分を卑下せずに済んだのかな。
たまにそういうことを思う。
わたしは無知であったし、今もなお無知だと思う。
その中でも、なんとかこう、少しずつ視野を広げては選択肢を増やしている。あるいは選択肢の存在を知っては、視野を育てている。
そして、今の自分が偏っていることに気づいたり、まだ気づかなかったりもする。
知らないという幸福
わたしは、これまでの20年ちょいの自分史(の中でももっと狭い範囲かもしれない)という視野の中で、始まってもない未来の選択肢を狭めて絶望することがある。
知識のもと手に入れた「可能性」(まだ選択肢とは言い難い)を信じる余裕がなくなるときだ。不確かなものに手を合わせるほど、何かを待っていられない状態になるときがある。
それが、宇宙視点のアリやアリ視点の宇宙とやらに、苦しめられているときなのかもしれない。
選択肢があることはわかる、けど視野が追いつかない。
視野が広くあることはわかる、けど選択肢がおいつかない。
といった感じ。
心は脳だけど、論理と感情は仲が良いものではないので、こういうバグが起きる。
というわけで、「知らないまま」のほうが苦しまないときもあることを、わたしは知っている。「知ってしまった」がゆえに、視野と選択肢のバランスがおかしくなることだってあると思う。
知らなければ、狭いところで守られていたかもしれないのだ。知ることって冒険と似た感じなのかもしれない。
それでもわたしは知りたい
それでも知りたくなるのは、たとえバランスを崩したとしても、選択したい何かを抱えていたり、手放したい何かを抱いているからだと思う。きっとこれは死ぬまで抱きつづける。
だから、わたしは知りたいと感じることを、出来るだけ多く知りたくなるのだ。狭いところじゃなくて、もうちょっとだけ自分の力を信じてあげて、もうちょっとだけ「なんくるないさ」って笑ってみたりしたくなるんだ。
そして、始まってもない未来が終わらないように、可能性を選択肢にしていきたいと願っている。
きっと、わたしは自由になりたいのだと思う。
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竹口和香
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