25歳秋、そう母に告げた。
"子供" がいつ頃を指すのかも、何を指すのかも知らないけど、とにかくわたしは自分の記憶の中に存在しない "子供らしい子供" を追体験することを母に宣言した。
それが自分への癒しのプレゼントであり、母と子の自立であり、わたし自身がこれからの人生を歩いていくために避けて通れない道だと思ったのだ。
「子供らしい」を知らない子供
わたしが "子供" だった頃、「わたしは子供らしいか?」なんて気にしたことはなかった。それは今のわたしに「大人らしいか?」という答えのない問いをすることと同じことだ。
でも、あの頃を振り返ると "大人にならなければならなかったわたし" は確かに存在したのだ。
それは家庭の中の役割であったり、役割が引き起こす言動を振り返ると一目瞭然だ。わたしが幼いままの姿でいられる環境に身を置いていなかったことを、今なら客観的に見ることができる。
ずっと誰かを守らなきゃいけなくて、誰かと誰かの接着剤にならなきゃいけなくて、 "家族” が機能しない家族を必死に "家族” にしようと毎日必死だった。
その役割を任命された訳ではない。だけど、あの頃のわたしにとって、家族はわたしの世界のすべてであり、わたしそのものだったのだ。
役割を持つことで愛されている感覚を覚えて、役割を持つことが生きる術になった。そして、そこに感情やわがままは共存しない。
そうして、ごく普通の顔をして、無自覚的に、"子供らしいわたし” は消えた。
共食からの離脱という家族への拒否反応
少し話を変えるのだけど、大学の卒業論文は「共食の離脱と摂食障害の関連性」について書いた。
共食から離脱することで家族という世界から抜け出すことになる。あるいは家族からの疎外感を抱いていると、結果として共食から離脱する。
数年前にそんなことを考えていた。
あの論文を書いた頃から変わらずに思う、共食と摂食障害は密接に関わっている。
小さい頃は「唐揚げ何個食べたか勝負ね!」と弟と競い合って唐揚げを頬張ってた。お母さんが作るコロッケとグラタンがだいすきで、何故かうちの家族は揚げ物に醤油をつけて食べるのだ。
そんな家族らしい食卓から、わたしは摂食障害という手段を取って離れようとしたのかもしれない。
夜ご飯では副菜と少しの雑穀米しか口にしなくなって、すきな食べ物は湯豆腐になった。お母さんが作ってくれたお弁当は教室のゴミ箱に捨てて、学校の自販機にあるこんにゃくゼリーを飲んでいた。
かと思えば、家族がいないときを見計らって冷蔵庫の奥の残り物を身体につめこむようになった。解凍していない冷凍食品や三角コーナーの生ゴミを食べた日もある。
こんな "大人らしくないわたし” がとんでもなく憎くてこれまでに感じたことのない恐怖に襲われた。
わたしの場合、本能的に家族からの離脱を望んでしまった理由は家族が嫌いだからではない。むしろ愛おしさゆえに生まれてしまった窮屈な役割でしか生きていけない自分に限界がきたという方がしっくりくる。
もちろんその頃のわたしはそんなことを客観的に分析できる余裕もなく、ただただ「自分は恵まれて、愛されて、”家族”があるのに何でこうなってるんだろう」と自分自身を責めるしかなかった。
わたしの家族がわたしの正解で、そこしか知らなくて、わたしがその正解を否定してしまったら、今にも崩れそうなこの居場所を潰すことになりそうだった。
"大人になるしかなかったわたし”は、この家族にいるわたしの中で死んだ。
カメレオンになるわたしがいないわたし
そんな子供時代を過ごしたわたしは、"わたし”を知らないまま年齢欄に書く数字だけが増えていった。
正解と不正解がある世界が心地よくて、そこに染まり切ること(過剰適応)が上手だった。上手、というよりそうするしかこの世に存在する方法を知らなかった。
相手の意見を聞いて、聞かずとも察して、自分を後回しにしてでも相手のために行動すること(自己犠牲)が上手だった。上手、というよりそうするしかこの世に存在する方法を知らなかった。
どこを見渡しても自分がいなかった。とっくの昔に、どこかに置いてきてしまっていた。
ひとりでいることが何よりも不安だった。自分がどこにいるのか、わたしが誰なのかわからなくなるからだ。わたしの中は空っぽで透明だ。
自分が空っぽであることを誤魔化すように他人や食べ物で自分の空洞を埋める。要るものも要らないものもわからないのに、とにかく何でもかんでもわたしの中に取り込んでは息をするのが苦しくなった。
「それは自傷行為だよ」「 自分にやさしくね」「もっと自分のために行動していいんだよ」
頭では理解できる。でも、言っている意味を体感として知らないわたしは、何をしたらいいかわからなかった。
この世からもともとなかった存在にならないかと毎日願っていた。
「1番いい子。でも1番何を考えてるかわからなかった。」
摂食障害が寛解しても、自己犠牲的で自己否定的な考えや完璧主義が完全に消えた訳ではない。もとからの気質や小さい頃から積み重ねてきた性格が180度変わることなんてないのだ。
何より困ったのは、対人関係で人との距離のとり方や自分の出し方がわからないことだった。カメレオンであるがゆえに、誰かと躓きながら向き合って関係を築くという経験が欠落していた。
そんな不安定な状態で何とかここまで生きてみた訳だけど、小さなガタを帳尻合わせすることに限界がきたわたしは25歳の夏、本格的に心を壊した。
実家での療養中に、ようやく自分の特性(完璧主義、理屈っぽい、気にしがちとかとか)を含めてわたしなんだと痛感した。この特性を変えたり抑えたりすることよりも、このままのわたしのままでいられる場所を探したほうが話が早いのかもしれない。
自分を変えるのではなく、身を置く場所を変えて裸のわたしで向き合うのだ。向き合いたい人と向き合って、一緒につまずいて、一緒に紡いでいくのだ。
これはきっと、心の置き場所も同じ話だ。置いてきぼりにされた "子供らしいわたし" を適切な場所に置いてあげることが、過去の呪いから解かれる方法だと直感的に思った。
過去じゃなく今を生きるために、過去に置いてきたわたしを連れてきてあげよう。
過去のわたしに仮面を被せたまま大切な人と時を過ごすんじゃない。今のわたしのままで大切な人と向き合えるように、過去にかかった呪いを解くのだ。
当初は苦しすぎてほとんど記憶と理性が飛んでいたけど、心が壊れたことは呪いを解くきっかけとして働いてくれたのかもしれない。
そんな経緯で、初めて母とわたしが、わたしたちについて語った。とっても仲がいい母娘だったけど、これまでわたしたちの関係性について話したことは一度もなかった。
なんの気なし(風)にリビングのダイニングテーブルにかけると、お母さんも何かを察したのか椅子に座ってこっちを見てくれた。
「あのさ」
このあと5時間に及ぶ対話が、始まった。
「実はあのときのこんな経験が忘れられなくて」
「この言葉がわたしを突き動かすときがあってね」
「今でも自分がいなくなるくらい家族という渦に飲み込まれるときがあってね」
怖かった。
これまでどんな手を使ってでも守ってきた。痩せて食べて吐いて死ぬ気で守ってきた。ずっと良い娘で、優秀でデキる娘で、お母さんに愛される娘だった。それが今壊れようとしている。
「お母さんそんなこと言ってたんだね、気づかなくてごめんね」「わかちゃんのこと、たくさん傷つけちゃってたんだね」
「・・・・・」
「わかちゃん、今お母さんが傷ついてないか気にしてる?」
その瞬間、涙が溢れ出て止まらなくなった。
怖いよ。25年間守り続けてたものが壊れそうだよ。いやだよ。壊れないでよ。やだよ。ごめんなさいお母さん。
「わかちゃんあのね、小さい頃からね、わかちゃんが一番いい子だった。でもね、一番何を考えてるのかわからない子だったよ。」
いちばん、なにをかんがえてるのか、わからなかった?
そうか、そうなのか。お母さんはとっくにわかってたんだ。わたしが本当の顔を見せてないことなんて。
わたしが守ろうとしていたものはとっくに中身のない空虚なものだったのかもしれない。そして仮に壊れたとしても、もうどうでもいいものなのかもしれない。
「・・・お母さん、傷ついてない?」
「うーん。考えさせられるけど、傷ついてるわけじゃないかな」
「・・・わかった」
「話してくれてありがとうね」
「ううん、聞いてくれてありがとう」
「・・・・お母さん、わたし子供やりなおす」
「うん、たくさん子供しよう」
よし、たくさんワガママ言って、たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん怒って、”子供” やってやる。
今はお母さんのお弁当は嬉しくて、一人になりたいときもあって、たまに約束を破って怒られたりとかして、姉妹喧嘩をして、弟に頼ってみたりもして、お父さんにプレゼントを送ってみたりもする。
わたしにとっては初体験ばかりの日常だ。
この家で安心して "子供" をやり直している。
心の未来である今のわたしへ、
楽しみにまっててね。
竹口 和香
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