「食べる」と仲良くなれない私たちの日常は

 

日常から「食べる」を取ったら人はどうなるだろう。 

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生きる活力がなくなる?

次第に栄養が足りなくなる?

そして体重が減っていく?

 

それだけ?「食べる」は体を作るためだけにあるものなのか。

 

「食べる」は日常の空間を創ること

 

そうじゃないよね。クリスマスチキンや御節料理がある理由を考えてみてください。

 

人は 楽しいとき、悲しいとき、嬉しいとき、悔しいとき、「おいしいもの食べよう」と自分へのご褒美をたのしみに生きる。

 

人は誰かと会いたいとき、話したいとき、聞きたいとき、「お茶でも飲もうか」と誰かにLINEする。

 

人は 一人になりたいとき、考え事をしたいとき、読書をするとき、「コーヒーをください」と自分の時間をつくる。

 

どんな瞬間にも、どんな感情にもその時々に「食べる」は隣にいて、私たちの日常を創ってくれる。

 

「食べる」を通じて人と感情を分けあうこと。

「食べる」を通じて人と関係を築くこと。 

「食べる」を通じて何もない時間を彩ること。

「食べる」を通じて自分の心と向き合う時間をとること。

 

日常にはどれも欠かしたくない瞬間。

 

誰かといるときも、そうでないときも、その日常、その時間を創るのは「食べる」という空間です。

 

「食べれない」は日常を失うこと

では、「食べる」ができない人はどうなんだろう。

 

うまく食べ物を扱うことができない。

自分の食欲をコントロールすることができない。

食べた物を受け入れることができない。

 

だから人と食事をとることができない。

 

一見、食べることに障害を持っているだけのように見えるけど、その人は「食べる」とともに、日常を失う

 

朝起きて「今日も頑張るぞ」と入れるコーヒー。同僚と楽しく恋愛話をするランチ。3時の休憩に食べるコーヒーとクッキー。「今日もお疲れ様!」と友人と交わすビール。

 

時には感情を生み出す瞬間であり、感情の切り替えを目的に行われる「食べる」が存在しない。食べられないということは、「食べる」空間が創る日常を失う。

 

 

日常を失うことは人を失うこと

私たちは、あまりにも「食べる」を通じて繋がっている。日常を失うことによって、当然ながら人間関係にも影響がでる。

 

友達と可愛いカフェに行ってパンケーキを食べられない。仲間の仲を深めるバーベキューにも行けない。会社の飲み会にも歓迎会や送別会すら行けない。記念日に恋人とお洒落なディナーにいけない。家族と食卓を囲めない。

 

仮にいけても、「うまく食べられているか」「ちゃんとみんなと同じように笑えているか」で頭がいっぱい

 

だんだん、希薄になる人間関係。だんだん、自分が、みんなが、離れていく。

 

でも追いかけることができない。離れないで!も言えない。 一度話を聞いてよ!も言えない。だって「ごはんでもいこう」が言えないから。

 

 

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<2020年12月23日追記>

摂食障害の症状がない今ですら、行きたくない食事会の方が圧倒的に多い。

 

天気や時事ネタで繋がなきゃいけない会食に行くだけで体調崩すし、4人以上の飲み会は自分の役割を探し始めちゃうもんだからもう駄目。

 

でもしんどいことに、慣れなくていいんだ。行かないという選択をしていい。その選択が許されないコミュニティなら抜けていいって今なら自分に許可できる。

 

無理にできないことしなくても、その時の自分が行ける場所に行くって感じで人生を作っていきたい。そんな感じで生きてたら、似た価値観の人と出会えたりして、笑い合ったりたまに涙ぐんだりしたい。

 

笑顔の仮面を被るから、いつまでもそこにすがりついちゃうんだろうな。もっと世界は広いのに、ここで負ける自分は外でも受け入れられないなんて思っちゃう。

 

だから、わたしは「食べても食べなくてもいい居場所」「笑わなくていいけど気づいたら笑えていた空間」を作りたいって思うんだ。

無理に笑って頭で「楽しめ!」と頑張ってた人が、自分の時間を作れる瞬間を。

 

みんなあったかくしてね。

 

竹口 和香