自分は真面目なんかじゃないですって思っちゃう真面目な人へ。
真面目にやるし真面目にやらない
先日母とわたしの子供の頃の話をしていた。
小学校高学年になる頃、わたしは母に「わたし、真面目って言われるのが嫌い」とこぼしたそうだ。母はそのときに、あぁこの子は真面目な子なんだなと思ったらしい。
今振り返ると、何事にも真面目な子だった。今だってそうかもしれない。
習い事のダンスではセンターを取り、水泳は大会でメダルを取るほど練習に没頭した。
合わないと思った通信教育は1ページも進めずに週1のオンライン授業すらサボった。
ダイエットを始めると目標は好きな雑誌のモデルのBMIに設定し心配される程痩せた。
高校は遊ぶから!と偏差値を落としてまで入学した高校でバイトをして遊びまくった。
と思えば、上京が目的の大学受験では1日12時間勉強して半年で偏差値を20あげた。
ゴールや節目が存在して真面目すぎるに終止符が打たれるものならば、真面目も自分にとって弊害にならなかったかもしれない。真面目でいることで褒められることだって多かったのも事実。
でも少なからず小学校高学年のわたしは「真面目だと思われたくない」思っていた。過去に戻ってその気持ちを聞いてみたい。ほんとは何を思ってたの?
あの頃のわたしが何を思っていたかなんて今のわたしは知る由もない。だけど25歳のわたしも「真面目でいたくない」とは思っているよ。自分のブレーキとアクセルの扱い方を学ばずに大人になってしまったんだ。
真面目すぎるがゆえに、何事も頂点までやりぬくか、徹底的に捨てるという選択しか知らなくて大変なんだ。楽しむ前に頑張っちゃうんだよ。だから笑ってる人が羨ましいんだよ。
小学生のわたしは何を感じていたの?
真面目でやめられないから始められない
「真面目すぎる」の近しいところに0−100思考、完璧主義が存在する。
ある一定の歳までは、与えられたものを真面目にこなすか真面目にこなさないかを選択していたらそれなりに生きていける。それが、ある日を境に「自分の人生を自分で切り開いていきましょう」というミッションに変わるのだ。
壮大すぎる。
あの子は大学に進まない、あの子は就職する、あの子は夢のために勉強する。そうして各々の人生を自分で選んでいく。日常の中では娯楽は増え、趣味は増え、自分なりの色を足したり引いたり調合しながら歳を重ねていく。
きっとその過程で、「これは自分に合わないな」「しっくりこねぇな」でやめる瞬間があって、「理由はないけどなんか良さそう」「ひとまず始めてみよう」と手をだす瞬間がたくさんある。その回数が多いほど、自分が表現したい色になっていくんだと思う。
だけど、真面目すぎる人にとって「やってみる」「やめちゃう」のハードルはエベレスト級に高い。
「はじめたらやりきらなきゃ」
「結果をだすまでが最低限だ」
「やり始めたからには最後まで」
気づけば物事に手をだすこと自体が怖くなってて、自分が見ている景色は狭まっていく。そして真面目さゆえに手に入れた過去の栄光が恋しくてたまらなくなるのだ。
ドライフラワーに水をやっていることにも気づかず、未来に花が咲かせなければいけないプレッシャーに今日も動けなくなる。今日も動けなかった自分と、笑顔なあの子を比べて消えたくなる。
あの子が楽しんでるあんなことやこんなことが羨ましい。やってみたかった。でも自分にはできない。きっと結果を出せなくて始める資格なんてないから。
真面目すぎるが故の自信のなさへ
小さい頃に長所だった「真面目」はいつしか自分の自信を削ぐ凶器になっていた。
もしかしたら、元々自信がないから真面目に頑張っちゃう子だったのかもしれない。だから、努力を見られたくなかったのかもしれない。どっちが先かはわかんない。
だけど、大人になってもずっと真面目でいるとこうして選択肢を奪われていく。失敗もしないけど、同時に自分の色もなくなっていく。
自分を守るための真面目さが自分を壊しちゃうなんてね。なんで真面目になったんだっけって思うと、褒められたいとか愛されたいとかそんな感じだったはずなのにね。
外面は完璧で固めて、心から笑う他人が妬ましくて、そんな自分が嫌いで、厄介だよね。
やりはじめて合わなければ、やめちゃっていいんだよ。行ってみて息苦しかったら、帰っちゃっていいんだよ。誰も責めないから。
中途半端でも、結果がなくても、続けてていいんだよ。中途半端でも、結果がなくても、やめちゃっていいんだよ。自分の人生なんだから。
本当に求めてるものへの近道は、自分の真面目さというプライドで手放せないガラクタを手放すことかもしれないね。
竹口和香