「周りにいない」病であることが摂食障害の闇だ。
今日はNHK大阪「かんさい熱視線」で摂食障害が特集される日。コロナ禍の1年、摂食障害がメディアに出る回数が格段に増えたよね。
これまでの「痩せすぎる病!」「食べすぎる病!」という内容とは色が変わり、心の問題や社会的・文化的な背景を問題視する報道も増えたように思う。
一方で、摂食障害を囲む社会が、一人の ”周囲" が、当事者さんにとって心地よいものに変わったとは到底思えないのがわたしが見る現状。
実態と声の乖離
日々当事者さんから届く相談、日常の中で耳にする声。
わたしが見た景色は、「摂食障害は知っているけど周囲にはいない」という他人事だった。
「嫌ならやめればいいじゃんと言われた」
「痩せるやつでしょ?と決めつけられた」
「みんな食べ過ぎちゃうときくらいあるよと流された」
当事者さんが日々浴びている言葉は、今日も相変わらず鋭い刃のままだ。
「周囲にいたら助けてあげたいと思った」
「困っていたら声をかけてあげたいと思う」
「自分は関わったことがないけど勉強になった」
世間の声はあたかも自分は関係ないことのような顔をしている。
声を大にして言いたい、摂食障害は今この瞬間も、街中に、わたしたちの周辺に、ごろごろと転がっている。
わたしが摂食障害の過去を公言してこの活動を始めてから、何人の知人がわたしに連絡をしてくれただろう。
「実はわたしも」「誰にも言えなかったんだけど」
連絡してくれた知人の多くが周囲に打ち明けていないか、ごく少数のみに打ち明けた状態で日常と闘っていた。元当事者であるわたしですら、その闇に葬られた孤独に気づくことができなかった。
それほどに ”見えない病” であり
"見えないようにしなきゃいけない病” なのだ。
"見えない病" へどう向き合うか
『知らない事実は無実である。』
一方でわたしはこんな価値観を持っている。伝えずに守られる瞬間より、伝えないことによる溝の深まりが自他を傷つけた経験からだろうか。
だからこそ、こうして言葉にすることや実名で活動をすることにこだわりがあるのかもしれない。
ただ、すべての人が自分の知ってほしいことを言葉にできる状態にいるとは限らないのだ。そして言葉にできたことを声にできるとも限らない。
では、社会が、一人の ”周囲” が、言葉や声にできないSOSに対してできることはあるのだろうか。
わたしは、生きづらい世の中を変えるのは想像力を持つことだと思う。
摂食障害に限らず様々なマイノリティにおいて、他人事であることが何よりもの弊害で、他人事という想像力の欠如が生む傷はマイノリティを抱える苦しみよりむごい。
目の前の人間ひとりひとりを疑ってかかれ、という話ではない。ただ、「自分を取り巻く人たちはみんなちがう人間だ」という前提を忘れてほしくないし、わたしも忘れずにいたい。その中にたまたま摂食障害が存在するかもしれないし、うつ病や発達障害やLGBTやフェミニスト、いろんな色があるのだと思う。
それぞれの専門家になれ、という話ではない。わたしも今えらそうに言葉を吐いているのだけど、世の中には知らないことだらけだ。だからこそ、知らないことが世の中にたくさんあるという余白を持って人と対話をしたいと思う。
きれいごとかもしれないけど、想像力がマイノリティの抱えているものを軽くすると信じている。そしてその想像力は、何かの "周囲" であるわたしたち一人ひとりの「凝り固まったわたし」を緩めることにもつながると思う。
そんな思いを持って、わたしはひとりの人間として、たまたま摂食障害というキーワードでつながったひとりの誰かと今日もお話ししている。
この世に「いない」とされるものが、一人でも「見える」ようになりますように。
竹口 和香
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