自分のブログで文章書くのなんて久々すぎて書き方忘れたなぁ。
なんかあれ、年末年始と誕生日だけ投稿されるFacebookみたいになっちゃってて笑えますね。お久しぶりですこんにちは。
さてと、頭には書きたいことが溢れてるのに手が動かないミス不安定なわたしの手を動かしたトピックスがあるので書いています。
摂食障害のドキュメンタリー映画
ドキュメンタリー映画「DieAter2 PANDEMONIUM」の上映会が明日に迫りました!
明日行かれる方は楽しみでたまりませんね。(誰目線)
上映会というのもあの東京ドキュメンタリー映画祭で、です。と言っても、わたしは映画業界は全く知らなくてアレなので、「この映画を殺さない」と動き続けた計り知れない過程が形になって多くの人の目に触れ、生きるものとなったようです。そう理解しています。
いつも絶妙な距離感で支えてくれてるコーヒー屋の店長が一人で撮影制作宣伝しているその時点で理解の域超えませんか。大学でドキュメンタリー映像撮ってたわたしの中では余裕に超えています。
わたしが映画制作への思いについて語っても仕方ないので、ぜひ店長のnote観てください。
思い、当事者だったわたしとして
思えば渦中にいた頃から、摂食障害がテーマになってるテレビを観るたびに期待して落ち込むことばかりだったなぁと思い返しています。
だって、ちがうんだもん。わたしの病気が映されてないんだもん。摂食障害はそんなに綺麗じゃないしバラエティで「デデンッ!」って扱えるようなわかりやすいテーマでもないんですが?ってずっと思ってた。
症状にフォーカスした特集もあったけど、その背景や本人の苦悩が映ってないが故に視聴者からしたら”テレビの向こうの世界””頭がおかしい人”として処理されて終わる。そりゃ隣に当事者がいるなんて気づかないのも無理ないよね。
ずっとわたしたちは代弁者を求めていたんだと思う。わたしのこの「自分が自分でどうしようもならなくなる」という苦しさを社会に伝えてくれってずっと願ってたんだと思う。同時にその苦しさを受容してくれる場所が本当は欲しかったんだろうと思う。
摂食障害ってずっとどこかの世界の他人事だったんだよね。いや、今でもそうかもしれない。名前だけ先歩きして、日常に取り残された当事者は影で生きるしかなくなってんだよ。でも実際には今も隣で仮面を被って笑っているし今日も一人で泣いてる人がいるんだよ、たくさん。
それを覆す、一人の人間の生活として映してくれたのがこの映画。社会への訴えでもあると同時に、やっと一人から解放される当事者がたくさんいる。
観る人によっては、自己投影できるものが存在することに目を背けたくなるかもしれない。自分の影を明るみにされたくないと暗闇に帰っていく人もいるかもしれない。
その葛藤が生じる生々しさもまた、自分と摂食障害の関係性を見るきっかけになるのかなぁなんて思ったりしています。
思い、視聴者のわたしとして
DieAter2があるということはDieAter1が存在したということで。1がまぁ激しめの描写で、結論から言うとフラッシュバックして摂食再発しかけたんだよね。
(わー自分を立て直そうと必死なご様子が残ってた)
なので今回「出てよー!」には快諾したくせに「できたよー!(データ)」にはちょっと怖くなっちゃった自分がいた。(実際データ送ってもらってから3週間そっと脇に置いてた。笑)
1を観てから2年間たってわたしの状態も変わったというのは前提だけど、今回の映画は不思議とフラッシュバックや不快感はなくて、身近にいるであろう人の人生を観たという感覚が強かった。
それこそがきっと摂食障害の核でドキュメンタリーにする意義なんだと思う。当然わたしの知らない摂食障害があって、みんなの知らないわたしの摂食障害があって、その摂食障害は生活や自分との境界線を破壊していく。形も深さも違って根っこはおそらく違うどころじゃない、別もの。だからこそ説明がつかない。
そんな「説明のつかなさ」「答えがないという答え」という現実が存在することをわたしを含め世の中は知っていいと思うし、摂食障害に限らずつけられたラベルで判別されて無機質に処理されるこの世の中に少しでも灰色の世界をつきつけられるといいな。
映画を観て抱いた感覚、感情はわたしの中でも忘れずに大切にしておきたい。
最後に、出演者として
観てな!!!!!!!!!!!!!!!!
以上です。
(やっぱ文章書くのすきだわ)
竹口和香