だから今年も年末年始が憎くてね

 

今日もなにかを否定して自分を保とうとする自分がすこし嫌になる。

 

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年末年始をすきになれない

もともとイベントは好きなほうでない。その中でも特別すきになれないのが年末年始だった。

 

年末年始への違和感を言葉にするべきでないと思っていた。日本人である限り「笑顔で年末年始をする」は死ぬまで必須の仕事だと疑ってこなかったのだ。

 

晴れやかなテレビを観て、「3、2、1」と指を折って、おめでとうの対象もわからない祝福の言葉を交わし合う。去年を振りかえり、今年に希望を抱いて、前向きな言葉を並べなきゃいけない気がした。年末年始についていこうとするほど、わたしが宙に浮いている気分になる。

 

そして無条件に、日常が機能していない家にも年末年始はやってくる。日常では誤魔化されていた溝に、スポットライトを照らされるようだった。その冷戦のような空気の中で居場所を間違えた祝福の言葉や、華やかな料理に耐えられなくなるのだ。

 

そのあべこべな景色に苦しくなりスマホを開く。

 

LINEを開くと大量の正月SALE情報、インスタを開けば家族でトランプや人生ゲームをする様子、あの子とあの子が初詣に行ってるだとか、わたしはそこにいないだとか、Twitterを開けば特番を楽しむ様子や今年の抱負。

 

口いっぱいに孤独の味が広がるのだ。どこまでもひとりな気がして、わたしは年末年始を憎むしかなくなる。

 

 

たまらなく憎くて羨ましいのだ

何も考えず、イベントを楽しめる人が羨ましい。

 

クリスマスには食卓にチキンを乗せて家族でつっつくことが楽しくて、お正月には御節料理の意味を当てっこしながら今年の旅行はあそこ行きたいね、なんて会話をする。

 

そんな日常が機能している前提での非日常がずっとずっと羨ましくてたまらなかったんだ。

 

「これは楽しいものだ」と頑張らなきゃ非日常を越えられないから、非日常を超える為に自分を殺さなきゃいけないから、そんな日がくることが苦しいのだ。

 

だから、毎年無条件に訪れるイベントを憎んでた。

 

楽しむための理由を探さなくちゃいけなくて。でも、どれだけ探してもこの違和感を超える理由が見つからないから苦しいんだ。

 

「おそば食べないと年越えれないよ〜」

って笑いながら言ってみたかった。

 

「越えられるだろ、時間が過ぎてんだから」

なんて本当は思いたくなかった。

 

「あけましておめでとう〜!ことよろ〜!」

ってこの瞬間にしか交わせないこの言葉に祝福してみたかった。

 

「この状況の何がめでたいか教えてよ」

なんて本当は思いたくなかった。

 

当たり前に、理由もなくイベントを楽しめる人が、羨ましくて憎かった。

キラキラしてるその「当たり前」がほしくてたまらなかった。

 

 

こうして、自分を守るためにまたひとつ何かを嫌って自分の息が苦しくなる。でも許容してしまうと、そうなれない自分を守っていけない気がするから。

 

 

 

 

もう少しでやってくる誕生日は私なりの最高の日常にした。超たのしみだ。

 

竹口 和香